
被災地訪問レポート
12月6日(木)に被災地である陸前高田市の小中学校に実行委員Eと私で義援金を届けてきました。陸前高田市は報道でご承知のように、津波の被害がもっとも大きな地域です。事前に現地在住のFさんが陸前高田市の教育委員会を訪問して、現地の小中学校の現状を聞き、被害の大きい小中学校から訪問先の学校を3校に絞り込みをしてくれていました。そして各学校を事前訪問し、タイムスケジュールも作成してくれていました。我々は、彼の作成したスケジュールに従い、義援金を各学校に届ければいいだけでした。
当日は一ノ関での待ち合わせでしたので、東京発7時56分の「はやせ103号」に乗車、10時21分に新幹線一ノ関駅に到着しました。駅のホームまでFさんが迎えにきてくれました。長崎からの義援金を岩手県まで届けるとの連絡をうけて感激して、事前準備を十分行い、6日(木)と7日(金)の2日間会社の休みをとって案内してくれることになったのです。彼の協力なくしては、たった一日で各校に義援金をとどけることは、困難だったと思います。岩手県の事をよく知らない我々に車中でいろいろなことを教えてくれましたので、また勉強になる旅ともなりました。彼はもともと歴史好きのようですが、今回の案内のために、一段と知識を深めているようでした。
一ノ関市は広く、東京都の2/3の面積もあるとのことでした。車で走っても、なかなか一ノ関市内を抜けでることなくその広さを感じました。陸前高田までは60数キロとのことでした。途中の風景は小高い山の連続であまり変化なく、たまに住居がある道路を一路越前高田市へと向かいました。昔は日本のチベットと呼ばれていたとの説明にうそはない感じがしました。12月にはめずらしいそうですが、時々晴れ間がみえる天候で、日中あまり寒さを感じませんでした。越前高田市との表示標識があるところから、道路の眼下にきれいな海が広がってきました。
景色がきれいだと思い車窓から眺めていると、やがて景色は一変しました。目の前に気仙川が目に入り、その川に大きな橋が架かっていました。ここが陸前高田市だとすぐ分かりました。よくテレビで放映されていた景色だったからです。気仙川の河口の橋の手前に被害を受けた気仙中が、廃墟のように建っていました。校舎の窓枠はすべてなく、3階の窓からカーテンのレースが1枚風になびいていました。車を止め、堤防を登り、川向こうをみると、そこが陸前高田の中心部でした。
鉄筋の建物が点在している荒野に瓦礫の山を整理している重機と、瓦礫を運ぶトラックがみえるだけで、人の姿が見えませんでした。ここに街が本当に存在していたのかと思う風景に言葉がでませんでした。川の手前の道を進むと気仙小でした。ここも、3階建ての校舎に窓枠もなく建物のなかは何も残っていませんでした。その道を200メートルほど、行くと道路より2、3メートル高いところに神社あとがあり、境内にイチョウの木だと思いますが、1本だけ樹齢300年はあろうかと思われる大木が残っていました。津波に耐えた大木には葉がなかったので判りませんが、来年も生きていて葉を茂らせてほしいと願いました。その場所が、千葉周作生誕の地との看板がありました。
車で橋をわたり、川沿いの道を進み、一山越したところに陸前高田市仮庁舎が
あり、教育委員会に挨拶にいきました。そこで、今回の義援金の趣旨説明をし、事前に訪問する旨つたえていた、気仙小、気仙中学、広田中学に加えて、高田小にも義援金を届けたい旨を伝え、学校に連絡をとってもらいました。市役所に着いたのは12時半ごろでしょうか。近くの仮設商店街の食堂で、食事を済ませ、各学校に義援金を届けることにしました。食堂の隣が作業用の長靴等を販売するwork shopまたその隣がスナックとなっていて、店の並びが面白いと思いました。
当初予定していた3校は各15万円、高田小10万円と決め、食堂で封筒に宛名を書きました。高田小は、実行委員Eが昨年5月にドイツのライプツィヒにある2校の小学校からの義援金の一部を届けていたので、時間があれば表敬訪問したいとの希望があり、急遽追加しました。
Fさんが決めていたスケジュール通り、まず、気仙中から訪問することにしました。先ほど記載したように、気仙中は壊滅的な被害を受け、たまたま震災前年に廃校になった矢作中の校舎を借り受けたようです。
まず驚いたのが、校舎の入り口に歓迎しますとの看板があったことです。2階に校長室があり、そこで吉家校長と面談しました。実行委員Eの「義捐金はご自由にお使いください」との話から始まり、長崎でのコンサートでの義援金であること、「長崎の心」を届けにきましたとの内容を話しました。後で訪問した各学校でもほぼ同様な内容でつたえました。
義援金の封筒、プログラム、演奏会DVDをセットで手渡し、その様子をFさんに写して貰いました。当初予定の3校では、学校側も写真を撮っていましたので、長崎からの義援金を届けた様子が生徒にも伝わることと思います。
ここからは、各学校で印象にのこった校長の言葉を記載します。
気仙中(吉家校長)
「中学の7割の生徒が仮設住宅から通っています。仮設住宅は13箇所に分かれており、スクールバス3台で、1時間かけて仮設住宅をまわり、生徒は8時に学校に着きます。帰りは6時にまたスクールバスで送ります。仮設住宅から出た生徒はまだ3人だけです。仮設住宅は、2部屋しかなく学習机を置く場所もないので、生徒に宿題をだすのが気の毒に感じています。まずは、生活再建が第一なので、家庭には教育費の負担をかけないようにしています。PTA会費は集めていません。このお金は教育にかかる費用に使わせていただきます。」
届けた義援金がこのようなかたちで使われ、感謝されたことに意義を感じて、次の気仙小に向かいました。
気仙小の校庭は仮設住宅で埋まっていました。仮設住宅の間の通路を通り、校舎につくと、ここでも歓迎されます。校長室は3階ですとの看板があり、気恥ずかしい気がしました。3階で校長と副校長と面談しました。そこには、地元の地域新聞である東海新報社の阿部記者が取材に来ていました。
気仙小(佐藤校長)
「とにかく忘れないでほしいというのが我々の願いです。いろいろな方からいただいたご恩を子供たちがおおきくなったら返してほしい。世界で活躍する人間に育ってほしい。
気仙小はすべてのものが流され、何も残りませんでした。ボランティアが600名、来て写真等拾い集めていま京都の方で、再生手続きをしています。来年3月にいま間借りしている長部小と合併になります。いただいた義援金は、そのとき話し合って有効に使わせていただきます」
校長は、長崎からの義援金であることに驚きがあったようです。また、時間が経ってから義援金を受けることは少ないようで、忘れないでほしいとの願いに我々は答えられた気がしました。非常に喜ばれていました。あと雑談で、長崎の福砂屋のカステラの味が忘れられない、海星のサッシーの話で、長崎は野球の強豪県ですね、またウィーン・フィルは世界最高のオーケストラで、一度演奏を聴いてみたいとの話が出て、副校長から、校長は野球好きで、また音楽も大好きです。とのフォローがあり、また取材の阿部記者も私も1度聴きたいですとの話で盛上りました。長崎は野球の強豪県ではないと思いましたが否定できませんでした。校舎を出て、阿部記者から、訪問校と義援金の金額をきかれたので、記事になったかもしれません。東海新報社は大船渡を中心とした新聞社なので、翌日の購入はできず、今日新聞の送付を同社にお願いしました。
次に広田中学を訪問しました。こちらも本来の校舎より高台の仮校舎でした。
校長(菅野校長)
「広田中学の体育館は地域の避難場所となっている高台にあるのですが、
防波堤を波が超えて来るのをみて、一段高い水産高校に全員避難して間一髪助かったとのことです。丁度、クラスルームが終る頃で、生徒がまだ学校にいたのも幸いしました。前校長からそのように聞いています。義援金は教育関係に使わせていただきます。」
校長室に掲示された写真から前校長は先ほど訪問した気仙中の吉家校長とわかりました。広田中は少なくとも海岸より10メートル以上あるところにあるのですが、津波がこんなところまできて、校舎を破壊したのかと驚きました。
広田中は半島部分にあり、津波によりしばらくは陸の孤島だったと後で聞きました。海岸線の白い砂浜が印象的でした。
最後は高田小に訪問しました。岩手は4時過ぎると暗くなるときいていましたが、4時半頃学校に着いた時は、真っ暗でした。
校長は不在で、副校長(菅野副校長)に義援金を手渡しました。
学校は海岸線から2キロぐらい離れた少し高台にありました。1階は瓦礫が流されてきて瓦礫に埋まったが、職員室は2階にあり、学校のデータは残ったとのことです。今は、学校から海がみえますが、震災前は校舎の向こう側にはぎっしり建物が建っており、海が見えない場所だったそうです。津波のときは、たまたまトイレに行っていた女子児童が、電信柱を倒し黒い水が来ていると報告し、あわてて避難したそうです。
校舎から海の方をみると、ところどころに鉄筋の建物が残った破壊された市街地をみることになり、児童もつらいのではと聞くと、もう慣れたみたいですとの返事でした。校長室に7枚の生徒のスナップ写真があり、眺めていると「津波でなくなった児童の写真です。今年になって校長も心の整理がつき、卒業写真に載ることのない子供たちを忘れないために貼ることにました。」とのことでした。忘れんろ!!との記載が目にやきつきました。「私も身内を亡くしました。」とぽつりと言われたのも忘れられない一言でした。
「義援金は児童のドリル購入費に使わせていただいます。」とのことでした。
校舎の2階から海の方を眺めても、街の光は無く、ただ暗い空間が広がっていました。津波がこの地域の多くの人の未来を奪いさった不条理にいろいろな想いが錯綜しました。
その日は花巻に宿をとっていたのですが、帰路途中から雪がちらつき始めました。3月11日のあの時もこのような寒さだったろうなと、狭い仮設住宅でこの冬も過ごす被災者の事を思いながら宿に着きました。宿に着いたのは午後7時過ぎでした。Fさんが今日は250キロ運転しましたと話したので、その距離に驚きました。7日(金)は、Fさんの案内で宮沢賢治記念館にいきました。朝はあたりが一面の銀世界で、その美しさに童話の国に迷い込んだ感じがしました。
Fさんが館長に挨拶をしたいと、受付で話すと館長がでてきて、義援金を届けに岩手に来たとの話になりました。話題が音楽のことになると、クラシック音楽の力は子供たちに大きな力を与えることが出来ます。鏡みたいに心に響くのです。あとその力があるのは美術だけです。と言われ、長崎で生徒児童にクラシックを聴く機会を与える活動が認められたような気がしました。Fさんが、実行委員Eを通して岩手県とウィーン・フィルとの交流ができればと話し、館長が会場はどこでも手配しますとなり、最後は日本のどこでもウィーン・フィルとの交流ができれば、で落ち着きました。
それから、館長が記念館を案内しましょうとなり、丁寧に案内してくださり、2時間程度、宮沢賢治についての展示について説明を聞くことになりました。館長の知識の深さ広さには驚きました。おかげで、賢治がマルチの能力を持つ天才であること、また、その一生をも理解できました。宮沢賢治学会があり、最近雨にも負けずの手帳のメモにある、ヒドリを弟の清六が日照りと直して発表したのが、もともとの日取りで解釈できると喧々諤々の議論になって、結局はどちらとも判断できないとの結論になったとのことも披露していただきました。賢治が音楽に造詣が深く、所蔵の賢治使用のチェロが鈴木の第1号のチェロであり、多くの小品を残していることも知りました。ちょっとした賢治通になれたと思います。
昼から、中尊寺をFさんに案内してもらい、帰途につきました。帰途に三陸沖の地震により、新幹線がトンネル内に停止して、40分遅れで東京に帰ってきました。
今回、実行委員EとFさんとともに届けた義援金は、実行委員各位はじめ、地元で関わってくださったすべての方の力があったからだと思いました。4校に義援金を配ることで、少額で申し訳ないとの気持ちもあったのですが、各校を回り、使途の自由なお金がこんなにも必要とされていること、また長崎からの義援金であることも価値があることが分かりました。
また、各学校の校長を始め職員の方々が、厳しい環境の中で生徒児童のことを深く考えていることも分かりました。また、その学校の生徒も前向きに生活している模様も伝わりました。
いま三陸縦貫高速道路を災害対策として促進しようとの動きがあるようです。でも、陸前高田市の現状をみると、もっと優先的に取り組む政治課題があるのではと強く感じました。私は行くまでは岩手県のこと、また被災地のこともわかっていなかったなと痛感しました。陸前高田市は地震では被害はほとんどなかったが、津波の被害で市街地が壊滅したこと。また岩手県は山また山の地形で河口近くしか、まとまった土地がなく、その条件下で都市再建は簡単なことではないことがわかりました。気仙小学校も創立138年と歴史のある小学校で、陸前高田市はかっては風光明媚で、財政も豊かな文化都市ではなかったと思われました。また、岩手県は四国4県に匹敵する面積と聞き、そんなに広いのだと初めて知りました。
そうすると単純に4県分の復興資金がいるのかもと思いました。
長崎の実行委員会を代表して陸前高田に義援金を届けましたが、その選定は間違ってなかったと思います。実行委員Eも私と同じ想いだと思います。2人を代表して義援金を届けたことを報告しました。文章のプロである実行委員Eであれば、もっと手馴れた文章で報告ができるとおもいますが、だいたいのところはお伝えできたかと考えています。
平成24年12月8日
実行委員 N.I